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聖林寺から観音寺へ 白洲正子 日本の名随筆別巻㉑ 巡礼 早坂暁編

2021/ 02/ 18
                 

 
 聖林寺幾度の旅か巡礼地白洲正子のエッセーに酔う


 ~~~ 白洲次郎役を伊勢谷友介〈少年時高良健吾.晩年時神山繁〉が演じ、樺山正子〈結婚後白洲正子〉役は中谷美紀が演じた『ドラマスペシャル・白洲次郎』は、2009年2月28日から全3回にわたって、NHKで放送されました。

 ちょっと寄り道をしますが、正子の実家樺山家は伯爵の家柄であり、祖父は陸軍大将です。母方の川村家もまた伯爵の家柄であり、祖父もまた陸軍大将でした。ちなみに爵位ですが、上位から並べてみますと、公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵となります。読み習わし方としては、「公侯伯子男(こうこうはくしだん」」として小さいころに教わった記憶があります。多額のお金を国に寄付すると一代男爵となれることなど日本ならではの制度も思い出しました。なお、華族令は昭和22年(1947年)3月に廃止されています。
 また、正子は、大正から昭和にかけての4年間、アメリカの女子校に学び卒業しています。当時として女子の海外留学はとても珍しかったといえましょう。
ということはさておきまして、

時折画面の中に出てくる二人の英語での会話が、何か今でも印象深く記憶に残っています。〈どんなことを話していたかなどは何一つ覚えていませんけれど〉
 このテレビドラマは、平成21年度(第64回)文化庁芸術祭賞優秀賞(テレビ部門・ドラマの部。第1回「カントリージェントルマンへの道」に対し)、および2009年度(第14回)アジア・テレビジョン・アワード審査員奨励賞(シリーズドラマ部門)を受賞しています。 ~~~


  2十一面観音 -



 聖林寺から観音寺へ  白洲正子

 はじめて聖林寺をおとずれたのは、昭和七、八年のことである。当時は今とちがって、便利な参考書も案内書もなく、和辻哲郎氏の『古寺巡礼』が唯一の頼りであった。写真は飛鳥園の先代、小川晴暘氏が担当していた。特に聖林寺の十一面観音は美しく、「流るる如く自由な、さうして均整を失はない、快いリズムを投げかけゐる」という和辻氏の描写を、そのまま絵にしたような作品であった。聖林寺へ行ったのは、それを見て間もなくの事だったと記憶している。


 桜井も今とはちがって、みすぼらしい寒村の駅であった。聖林寺と尋ねても、誰も知っている人はいない、下(しも)という字(あざ)にあると聞いたので、寺川にそって歩いていくと、程なくその集落へ出た。村の人に聞くと、観音様は知らないが、お地蔵さんなら、あの山の上にあるという。お寺へ行けばわかると思い、爪先上りに登って行くと、ささやかなお堂につき当った。門前には美しいしだれ桜が、今を盛りと咲き乱れていた。

 案内を乞うと、年とったお坊さまが出て来られた。十一面観音を拝観したいというと、黙って本堂の方へ連れて行って下さる。本堂といっても、ふつうの座敷を直したもので、暗闇の中に、大きな白いお地蔵さんが座っていた。「これが本尊だから、お参り下さい」といわれ、拝んでいる間に、お坊さまは雨戸をあけて下さった。さしこんで来るほのかな光の中にこんな美しいものがあるのかと、私はただ茫然とみとれていた。

 観音さまは本尊の隣の部屋に、お厨子ともいえない程の、粗末な板がこいの中に入っておられた。その為に膝から下は見えず、和辻さんが賛美した天衣の裾もかくれている。が、そんなことは少しの妨げにもならなかった。私が呪縛されたように動かずにいるのを見て、住職は後の縁側の戸を開けて下さった。

 くずれかけた縁へ出てみると、後側からは全身が拝めた。私はおそるおそる天衣の裾にさわってみて、天平時代の乾漆の触感を確かめてみた。それは私の手に暖かく伝わり、心の底まで深く浸透した。とても鑑賞するなどという余裕はなく、手さぐりで触れてみただけである。それが十一面観音とのはじめての出会いであった。

      *

 住職はお茶を入れて下さり、しばらくそこでお話をした。

 聖林寺は今でこそ小さな山寺にすぎないが、その創立は和同五年(712)、藤原鎌足の息、定慧が、父の菩提を弔う為に建てたと伝えている。その後、談山神社の別院として栄えたが、度々の火災に会い、衰微していたのを、鎌倉時代に、三輪の大御輪寺の長老、慶円上人の助力によって再興した。現在のお堂は、徳川時代の建築というから、その後もしばしば災害に見舞われたのであろう。土地の人々が「お地蔵さん」としか知らなかったのは、貧しい民衆によって、辛うじて支えられて来たことがわかる。

 十一面観音は、三輪神社の神宮寺に祀ってあったのを、明治の廃仏毀釈の際に、ここへ移されたと聞いている。住職は当時のことをよく覚えていられた。発見したのはフェノロサで、天平時代の名作が、神宮寺の縁の下に捨ててあったのを見て、先代の住職と相談の上、聖林寺へ移すことに決めたという。その時住職は未だ小僧さんで(たしか12歳と聞いた)、荷車の後押しをし、聖林寺の坂道を登るのに骨が折れたといわれた。三輪には、観音様といっしょに、地蔵菩薩も祀ってあり、一旦はここに移したが、聖林寺には本尊がいられるので、そちらの方は先代住職の兄弟弟子がひきうけ、法隆寺へ移転した。今でも法隆寺の金堂には、本尊の裏側(北側)に、この地蔵様が祀ってあるが、檜の一木造りの堂々とした彫刻である。錫杖を持たない所から、神像かも知れないといわれるが、受ける感じはやはり地蔵以外のものではない。

 法隆寺の金堂といえば、戦前に見た壁画の中にも、十一面観音があった。今はもう焼けて、見ることは出来ないが、その当時でもあまり状態はよくなかった。勿論、彫刻と絵画では、比較することは困難だが、聖林寺の観音とよく似ていたような印象がある。そういう縁故もあって、地蔵菩薩は金堂の中に安置されたのではなかろうか。

   十一面観音菩薩立像33

 住職は、フェノロサのこともはっきり覚えていられた。穏やかなおじいさんで、観音様を移した時には、終始荷車のわきへつきそっていたという。光背の断片も一つ一つ新聞紙にくるんで運んだ。その光背は大きな箱の中に、元の形がわかるように並べてあったが、所々に金箔が残る宝相華や唐草文はみごとなもので、十一面観音がこの光背を背に立っていた時は、どんなに美しかったであろうと想像された。

 おいとまする時住職は、このようなことをいわれた。――若いうちによく見ておきなさい、「子たち」が出来ると、中々こんな所へは来られないから、と。私は既に結婚しており、子供もいたが、羞しいので黙っていた。その後二、三べん伺ったと思うが、そのうち戦争になり、住職もお亡くなりになった。考えてみれば、ずいぶん古い話だが、桜井駅のごたごたした町並みも、田圃づたいの小道も、満開の桜も、昨日のことのように思い出される。

 観音さまからうけた感動を静めようとして、私はしばらく桜の木の下にたたずんでいた。ちょうど日が落ちる時刻で、紅色の桜が一段と濃く染り、大和の青垣山が、夢のように霞んでいる。その中に、ひときわ秀れて立つ三輪の神奈備(かんなび)は、今見たばかりの十一面観音の姿に似ているように思われた。いつしか私の心の中で、観音と三輪山としだれ桜は重なり合い、一つの「風景」として育って行った。そうして四十年の年月が流れた。

     *

 戦後に行った時は、葉桜の頃で、桜が健在なことをしって、私は安心した。その時か、その次の時か、山の上の方に、新しい観音堂が建った。下からも光ってみえるのが、あたりの景色とそぐわなかったが、アルミニュームで出来ているとかで、雷が落ちないという話を、新しい住職から伺った。

 11お堂.

 新築のお堂の中で眺める十一面観音は、いくらか以前とは違って見えた。明るい自然光のもとで、全身が拝める利点はあったが、裸にされて、面映ゆそうな感じがする。前には気がつかなかった落剝が目立つのも、あながち年月のせいではないだろう。いくら鑑賞が先に立つ現代でも、信仰の対象として造られたものは、やはりそういう環境において見るべきである。またそうでなくては、正しい意味の鑑賞も出来ないのではないか。

 だが、そういう利点だか欠点だかを超越して、なおこの十一面観音は気高く、美しい。後世になると、歴然とした動きが現れて来るが、ここには未だそうしたものはなく、かすかに動き出そうとする気配がうかがわれる。その気配が何ともいえず新鮮である。蕾の蓮華で象徴されるように、観世音菩薩は、衆生済度のため就業中の身で、完全に仏の境地には到達していない。いわば人間と仏との中間にいる。そういう意味では過渡期の存在ともいえるが、この仏像が生れた天平時代は、歴史的にいっても律令国家が一応完成し、次の世代へ遷ろうとする転換期に当っていた。「咲く花の匂うが如き」時代は、また咲く花が散りかかろうとする危機もはらんでいた。そういう時期に出現したのが十一面観音である。だから単に新鮮というのは当らない。そこには爛熟と頽廃のきざしも現れており、泥中から咲き出た蓮のように、それらの色に染みながら、なおかつ初々しいのがこの観音の魅力ともいえる。一つには、乾漆という材料のためもあると思うが、どこか脆いようでいて、シンは強く緊張している。女躰でありながら、精神はあくまでも男である。その両面をかねているのが、この観音ばかりでなく、一般に十一面観音の特徴といえるかも知れない。

 もともと十一面観音には、そうなるべき素質と過去があった。 ~以下、後継~


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