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少林山とブルーノタウト

2014/ 01/ 06
                 
 ブルーノタウトの名は、父に教えてもらいました。




少林山のホームページより、「ブルーノタウトについて」の紹介をさせて頂きます。


ブルーノ・タウトは1880年5月4日ドイツの東プロイセン・ケーニヒスブルクに生まれました。建築の学校を卒業後、当時流行ったジャポニズム、アールヌーボーに影響され、日本に関心を持ち、画家になるか迷ったこともあったが、ヘードヴィヒと結婚し、ベルリンで建築設計事務所を開き、博覧会出品作や色彩豊かなジードルンク(住宅団地)などの作品が国際的な評価を受けました。

しかし、ナチス政権の台頭により、身の危険を感じたタウトは日本インターナショナル建築会の招待状があるのを幸にエリカ・ヴィティヒと共に日本に亡命しました。

1933年5月3日敦賀に到着し、翌日の誕生日に桂離宮を訪れて深い感銘を受けたのをはじめ、伊勢神宮では自然と調和した簡潔なそして厳しい形式に共感し、また建築家に連れられて全国を旅し、また、多くの文化人や工芸家に接し日本の文化を深く理解して行ったのです。

始めは仙台の工芸指導所に勤めましたが、建築家・久米権九郎氏の紹介で高崎の井上房一郎氏の知遇を得、後に高崎の県工業試験場高崎分場に着任します。

井上氏は八幡村の大地主である沼賀博介氏が農業の普及と改良の指導をして頂く東京農大学長・佐藤寛治博士のために建てた洗心亭という建物が少林山達磨寺境内にあって空いていることを知り、100日の予定で当時の住職・廣瀬大蟲和尚にタウトの滞在を依頼したのですが、結果的には1934年8月1日から2年3ヶ月もの長期滞在になってしまいました。

高崎では家具の設計をはじめ、竹や和紙を使った作品や漆器、竹皮細工、銘仙の図案など日本独特の素材を生かし、モダンな作品の数々を作り出しました。

洗心亭での生活は、6畳と4畳半だけの狭い簡素な建物ですから不便であったと思いますが、タウトは鴨長明の方丈記や松尾芭蕉の奥の細道を読み、池大雅の十便図を是とするほど、日本特有の「わび」「さび」の心をドイツにいる頃から学び、かえって自然に囲まれた「侘び住まい」を楽しまれたように思います。

また、毎日2時間ほど鼻高の丘陵地帯を散策し、農家の家々に寄り込み大黒柱を撫で回したり、天井裏の曲がりくねった棟木を見たり、農家の家の作りやその生活ぶりを気易く見て廻りました。言葉は通じないのに時にはお茶や菓子が出され、ゆっくりすることもあったそうで、タウトはその気のおけないなごやかな雰囲気を好み、地元の人達もまたタウトさん、エリカさんと親しく声をかけました。

次ぎのような散歩の時のエピソードが日記にあります。


私たちが山下の小径を歩いていると、いつものように大勢の村童たちが私たちのあとからついて来たが、やがて私たちの歩く先に立って両側の潅木の枝を左右に押さえつけ、枝の先が私たちに触れないようにしてくれた。外人を見ようとする好奇心はあっても、実に細かい心遣いをする物だ。みな貧しい?それも極めて貧しい子供たちなのに!やはり日本なのだ。

(昭和10年3月24日の日記)

タウトは昭和10年9月25日の碓氷川の洪水で罹災した藤塚地区には沼賀氏を通して見舞金を贈り、沼賀氏は全戸に「水害見舞 ブルーノ・タウト」と書いたバケツ渡し、残金は貧困家庭に分けられました。日本では十分な生活費もなく、ドイツから持ち込んだお金を取り崩す生活をしていたのにもかかわらず、仕事や散歩で行き会う人々の惨状を見ぬふりが出来なかったのでしょう。タウトのバケツはつい最近まで保存していた家が藤塚にあったそうで、タウトの暖かい心が今だ藤塚地区には語り継がれています。

日本では本職の建築では力を発揮することは出来ませんでしたが、洗心亭を本拠地にして、おもに関西から東日本の各地を廻り、画帳『桂離宮』『ニッポン』『日本の家屋と生活』『建築芸術論』『日本文化私観』などの著作を通して、日本建築の自然と調和した美しさと日本文化の素晴らしさを世界的に知らしめた功績は、私たち高崎市民にとって誇るべきことではないでしょうか。

トルコからイスタンブール芸術アカデミー建築科教授、兼政府最高建築技術顧問としての招聘があり、後ろ髪を引かれつつも建築の仕事が出来るということで応じました。

1936年10月10日赤坂の幸楽(その年2.26事件で反乱軍の宿舎となった料亭)で送別会の挨拶でタウトは「私はもはや健康ではない、再び日本に帰ることはできないだろう。日本は遂に戦争になるだろうが、集まって下さった方々の無事生きながらえることを願うばかりだ。出来得るならば私の骨は少林山に埋めさせて頂きたい」と言われたそうです。

その年の11月11日にイスタンブールに到着するのですが、翌年、厚遇を受けた大統領ケマル・アタチユルクの死に際し、その恩顧に応えようとして、葬儀場の設計を一晩のうちに仕上げるなどの無理がたたったのか、1937年12月24日脳溢血のためにこの世を去りました。

遺体はエディルネカピ墓地に埋葬されましたが、タウトの遺志を果たすため、エリカは翌年9月15日にデスマスクを少林山に納めました。

タウトがわが故郷とした洗心亭には「ICH LIEVE DIE JAPANISCHE KULTUR」(私は日本の文化を愛す)というタウトが少林山に残した言葉の碑があります。私たち日本人は自信を持ってこのような言葉を言えるようになることが、これからの国際化時代には必要なのだと今気付き始めました。座右の言葉として大切にしたいものです。



パンジー⑥



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