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上毛かるた さしすせそ

2014/ 01/ 07
                 
 八木節   群馬県

アヽヽアー 又も出ました 三角野郎が
四角四面の やぐらの上で 音頭とるとは
おゝそれながら 国の訛りや 言葉の違い
許しなされば 文句にかかるが
オヽイサネ

アヽヽアー ここに名高き 国定忠治
国は上州 アノ 佐波郡音に聞こえた
国定村の親の名前を
忠兵衛というて 二番息子が忠治でござる
生まれついての任侠肌で 音にきこえた
国定村の 人のためなら けんかもなさる

アヽヽアー 人もうらやむ 大貸元で
頃は弘化の 三年九月 今日もあしたも
あしたも今日も 今日もあしたもあしたも
今日も勝負勝負で其の日を送る

アヽヽアー もっとこの先よみたいけれど
上手で長いはまたよけれども 下手で長いは
おんざの邪魔よ やめろやめろの声なきうちに
ここら当りで 段切まするが オヽイサネ


上毛かるた
 そ ・・・ そろいの支度で 八木節音頭

ご存知八木節。
 その起源、由来は諸説あります。
 諸説あるということは、シンプル イズ ベスト。と、スパッと割り切れないところに、歴史性を感じます。

 きょうは、上毛かるたの「さしすせそ」

 さ ・・・ 三波石(さんばせき)と共に名高い 冬桜
 し ・・・ しのぶ毛の国 二子塚
 す ・・・ 裾野は長し 赤城山
 せ ・・・ 仙境尾瀬沼 花の原
 そ ・・・ そろいの支度で 八木節音頭


 尾瀬は、何回か行きました。
 最初に行った時は、遊覧船もボートもありました。
 東京から来た叔母と一緒に、家族皆で尾瀬の夏を泊まり込みで満喫しました。

 赤城山はいつも日帰りです。
 最初の頃は有料道路となっていました。
 その有料道路に入る手前で、焼きトウモロコシを売っています。
 甘くてホクホクして香ばしくて、夏の風物詩そのものでした。
 冬場でも、スキー客、スケート客が、行き帰りに立ち寄って、湯気を立てているトウモロコシに食らいついていました。
 今でも同じところで、焼きとうもろこしを売っています。
 一本の焼きとうもろこしの値段、当時と変わらないのでは…と、昨年立ち寄った時に思いました。


 上州、上毛の古墳、あちこち点在しています。
 父がサラリーマン生活を退いたあと、古墳発掘で、しばらくの間熱心に現場に通っていました。
 そういえば、発掘調査研究に来ていた群大の女子学生とお見合いをしたらどうかといわれたのも、この頃でした。
 三十歳前は、お見合いの話が星が降りそそぐようにあったのが、大台に乗ったとたん、(周りから想坊はその気はないんだと思われてしまい?) ピタッと見合い話が途絶えました。


 冬桜は見に行ったことがありません。
 発祥の地での八木節も見に行ったことがありません。
 「上毛かるた」にうたわれている「八木節」の起源(越後=新潟)、発祥・由来に、両毛(上毛説=群馬説と、下毛説=栃木説)に、その諸説があります。

 群馬県人、栃木県人でないと、八木節発祥の地はドコか、イズコか・・・などというのは興味のないことでしょうけれど、ウィキペディアの「八木節」の項を参考に載せました。
 あちこちを引き合いに出しながら、苦労して、工夫して文をまとめている努力のあとが、垣間見えている一章となっています。


八木節
伊勢町祭りの八木節
八木節(やぎぶし)は、現群馬県伊勢崎市境中島で生まれ、育まれた民謡である。

八木節の歴史[編集]
八木節の発祥については諸説あるが、通説は現在の栃木県足利市にあった八木宿において、 初代堀込源太(本名渡辺源太郎)が歌っていた歌がそのルーツであると考えられている。八木節の名称は、八木宿にちなむ。当初は渡辺の名から「源太節」と呼ばれてきたが、1914年(1913年説あり)に日本蓄音機商会でレコーディングされる際に命名された。

群馬県側では、八木節の起源は八木宿と同じ例幣使街道にある木崎宿で歌われてきた木崎節であるという。『日本民謡集』(町田嘉章、浅野建二)はこの説をとっている。このほか、江戸時代末期に流行した口説節が起源という説もある。

群馬県佐波郡境町在中島の桶職だった柿沼庄平が、商売でしきりに八木宿方面に出ていて源太を知り、庄平の世話で中島村の尾島長松の家に百姓番頭に来た。養蚕の日雇い稼ぎが主で、毎年夏場半年ぐらいは、中島村にはたらいていたが、それから十年ほど、源太の中島時代があったわけである、 源太は。一時馬方などやっていた、生来の唄好きで、よく馬子唄などをうたっていか、中島に来てからは、その唄好きによって口説きを唄いだしたが、もって生まれた美声と、抑揚に富んだ節調の上手は抜群で、毎晩のように村々の盆踊りに出かけたり、喚ばれて唄って歩いたが、中島の囃子連中と出場すると必ず入賞で一反流しを手にし、「中島の源太」として大いに名を上げたのである。源太三〇歳から三五歳ごろで、 源太の口説きは大変な評判になった。とこらが源太は、間延びした口説きのうたい方を、自分で創意工夫して調子のよいうたい方に変えた、 こそれは軽いリズムこ乗った調子のよいもので、その調子のよさは、一度に聞くものを圧倒させたのである。 その軽い節調は、上州人特有の好奇心を見事にとらえて、大いに評判になり「源太節」と呼ばれ盛行することになる。 しかし、源太節の初めは、囃子方がなかった。源太と一緒にいた小林半七さんの話には、はじめはただ一人で、囃子なしで唄ったのであるが、暫くたって中島の連中が工夫して、樽やカネ、笛をこれに合わせて囃子方をつくると、源太節は一世を風靡することになる。 いわゆるチャカポコ、チャカポコという軽いリズムの囃子方は中島の連中がつくったわけである。 もともと源太は、いわゆる粋な男で、源太一座の髪床師で一緒に興行してあるいた、桜井さんという老婆の話には、とても男前のいい芸人肌だったので、どこへ行っても女がつきまとったそうである。 八木節はますます盛んになったが、その八木節の発祥は境町在中島村である。その囃子方も中島村人によって創意工夫され、ここで十年間ほどうたわれた「源太節」がもとになったわけで八木節は上州に生まれたのであるが、八木節の名称によって、発祥の地がわからなくなってしまったのである。 その元流は口説き節で、元禄のころからの遺物である。木崎には木崎節、境町では「赤わん節」と呼ばれ、玉村には「横樽音頭」などと呼ばれた、 上州の口説き節が、越後から伝わったのは聞違いなく、明治初年、前橋民政局の達しに「古来より盆踊りと申事、当国に於ては右様賎敷き 風俗無之筈の処、近来越後辺より。。。。云々」とある。 なを、中島村は江戸時代のはじめ慶長六年に稲垣平左衛門の領地となり元和二年前橋酒井雅楽頭領、寛永十四年酒井忠能が分家領有して伊勢崎領、 寛文二年三月また前橋領、天和二年ふたたび伊勢崎酒井忠寛が領有して、明治にいたるまで伊勢崎藩が領有していた。明治元年四月明治政府のもとに 伊勢崎藩となり、翌二年伊勢崎県の支配、同四年十月伊勢崎県を廃して群馬県の支配となった。ついで熊谷県となり、明治九年また群馬県となった。 中島は大名領一給地で、古くから柿沼弥右衛門が名主を世襲していた。 今の柿沼十二家だが、寛政六年に名主年番制を定めた。村役人は名主が一人、組頭二人で、三人の村役人が、その以後は一年交替で名主と組頭を勤めるわけである。村役人源右衛門は柿沼了三家である。  天和二年のときの家数は四十二軒、人数は二百十七人で、慶応元年には家数六十七軒、人数三百四十四人、昔から農業も盛んだったが、舟頭稼業が多かった。また中島河岸から伊勢崎へ通じる道を駄賃馬道と呼んでいる。男が舟頭渡世だったので、馬子には女が多く、姉さんかぶりの女馬子がいい声で馬子唄をうたいながら馬を曳いたと古老が伝えている。  明治八年村内薬師堂に中島小学校が開校され、町田金十郎が初代校長となった。明治十二年四月中島、小此木、境の聯合戸長役場となる。 そして二十二年四月の剛志村合併となり、昭和三十年境町と合併となる。以上の事から、 八木節の発祥は境町在中島村「現群馬県伊勢崎市境中島」で、源太と関わりのあった方々の墓石も有り又、子孫も健在で検証する事が可能であり、 柿沼、尾島家の家系も正確であることから従来の木崎節起源説と口説節起源説とは矛盾が少なく妥当で正確な近世歴史の証となる。

一方、郷土史家の台一雄は、八木節の起源は古くから八木宿の近くの集落で古くから使われていた盆踊り歌の神子節で、これに他地域の民謡(木崎節も含む)の特徴が若干混ざったものだと主張した。台は著書『八木節 その源流をさぐる』で、従来の木崎節起源説と口説節起源説を否定している。



パンジー⑧
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