FC2ブログ
        

上毛かるた らりるれろ

2014/ 01/ 13
                 
 ら ・・・ 雷とから風 義理人情
 り ・・・ 理想の電化に 電源群馬
 る ・・・ ループで名高い 清水トンネル
 れ ・・・ 歴史に名高い 新田義貞
 ろ ・・・ 老農 船津伝次平


 昨年暮れ、船津伝次平のお墓の横の道を車で通りました。
 そのときは「上毛かるた」をブログに載せようと思っていなかったので、ちょっと立ち寄っておけばよかったかなと、いま、思い返しているところです。



船津伝次平
(1832~1898)は日本三老農の一人です。養蚕の基本である桑の栽培の研究をし、「桑苗簾伏法」を出版したのをはじめ、農業全般の近代化に貢献し、駒場農学校(現東京大学農学部)の教官となりました。
 ・所在地 : 前橋市富士見町原之郷乙539
 ・見学 : 墓参り可能
 ・問合せ : 前橋市文化財保護課 TEL 027‐231‐9875
 ・交通 : JR両毛線前橋駅からバス約20分 関越自動車道前橋I.Cから約20分
 (群馬県hpより)



老農 船津伝次平
 上毛かるたに「老農 船津伝次平」と詠われている船津伝次平翁。
 群馬県での知名度は抜群に高い有名人物ですが、どんな人物だったか知っている人は少ないのではないでしょうか。

 船津伝次平は日本三大老農の一人。「老農」とは、農業を研究し、それに体験を重ねて高い農業技術を身に付けた農業指導者のことを言います。

 天保3年(1832年)、勢多郡原之郷(現:富士見村)の名主の家に生まれました。
伝次平が生まれた船津家には「田畑は多く所有すべからず、又多く作るべからず」という家訓があり、寄生地主化への道は意識的に選ばず、養蚕を軸とした商業的農業を営むなかで、和算、漢学、俳諧といった文化に積極的に関わり、寺子屋を開設するなど、地域文化の核としての役割を果たしていました。

 そのような環境の中で、地域の農民の教育や農業改良普及に尽力した伝次平は父親の死後、若くして名主を継ぎ、広く村民に愛されるようになりました。その名声は明治政府にまで届き、請われて駒場農学校の教官になりました。

 駒場農学校では西洋農法と日本農法のよいところを併せ持つ混同農法(船津農法)を生み出します。
さらにその後、農事試験場技師に就任し、全国を駆け巡りながら新しい農法を普及し、日本農業の近代化に大きく貢献しました。

 明治31年(1898年)6月15日、郷里で亡くなりました。享年66歳。
お墓(県指定史跡)は富士見村原之郷にあります。
 (グッドぐんま 2007年9月20日付 hpより)



 小学校6年生のときの一泊バス旅行は、江ノ島・鎌倉でした。
 バスの車内で、Kちゃんが手元のメモ用紙を見つめながらガイド役をつとめ、一緒に歌ったのが、あの「鎌倉」の一節です。


 
鎌倉
 作詞=芳賀矢一 (文部省唱歌)

 1 七里ケ浜(しちりがはま)のいそ伝(づた)い
      稲村ケ崎(いなむらがさき) 名将(めいしょう)の
      剣(つるぎ)投(とう)ぜし古戦場(こせんじょう)

 2 極楽寺坂(ごくらくじざか)超(こ)え行けば
      長谷観音(はせかんのん)の堂(どう)近く
      露座(ろざ)の大仏(だいぶつ)おわします

 3 由比(ゆい)の浜(はま)べを右に見て
      雪の下村(したむら)過ぎ行けば
      八幡宮(はちまんぐう)の御社(おんやしろ)

 4 上(のぼ)るや石のきざはしの
      左に高き大銀杏(おおいちょう)
      問(と)わばや遠き世々(よよ)の跡(あと)

 5 若宮堂(わかみやどう)の舞(まい)の袖(そで)
      静(しず)のおだまきくりかえし
      かえせし人(ひと)をしのびつつ

 6 鎌倉宮(かまくらぐう)にもうでては
      尽(つ)きせぬ親王(みこ)のみうらみに
      悲憤(ひふん)の涙わきぬべし

 7 歴史(れきし)は長き7百年(しちひゃねん)
      興亡(こうぼう)すべてゆめに似て
      英雄墓(えいゆうはか)はこけ蒸(む)しぬ

 8 建長円覚古寺(けんちょうえんがくふるでら)の
      山門(さんもん)高き松風に
      昔の音(おと)やこもるらん


 文部省唱歌、芳賀矢一作詞の「鎌倉」の第一番に、「…名将…」と謳っているのは、「新田義貞」です。
 郷土かるたにうたいこまれている人物が、 何気なく歌っていた歌詞の中に入っているとは、恥ずかしながら、それまで存じ上げていませんでした。
 勢多郡北橘村の小学校に通っていたときに、「上毛かるた」を覚えました。
 転校して前橋市の小学校に通っていたときは、「上毛かるた」は、これっぽっちも話題にもなっていませんでした。
 先生の影響か何だったかどうか判るすべもありません。何れにせよ校内での「かるた会」というものはありませんでした。
 江ノ島・鎌倉旅行のバス内でY先生から、「名将とは、新田義貞のことだよ」と言われた時に、私は文字通り、両手を使って合点!したのですが、クラス仲間の反応は、「ヘェー…」という程度の軽いものでした。




☆伝説!龍神に祈った新田義貞☆
 由比ヶ浜と七里ヶ浜を分ける稲村ヶ崎は、新田義貞の鎌倉攻めの際の古戦場。

 新田義貞が海に黄金の太刀を投げ入れて龍神に祈願すると、潮が引き、海上の北条軍もはるか遠くに流されたため、稲村ヶ崎を突破できたという伝説がある。

 新田義貞の伝説は、尋常小学校の唱歌「鎌倉」にも「七里ヶ浜の磯づたい稲村ヶ崎名将の剣投ぜし古戦場」と歌われている。

 ※稲村ヶ崎は、源頼朝が落馬した地ともいわれている(参考:旧相模川橋脚)。

☆新田義貞☆
 新田義貞は、足利尊氏と同じく源義家(八幡太郎義家)の子義国を祖とする源氏。
 現在の群馬県新田庄を領したことから「新田氏」を名乗る。
 新田氏は、鎌倉御家人として仕えていたが、源頼朝の鎌倉幕府成立に非協力的であったことから、足利氏と比べるとその地位は低かった。
 1333年(元弘3年)5月8日、後醍醐天皇の綸旨を受けて、新田庄生品神社で討幕の挙兵をする。
 挙兵時は150騎程度だったといわれているが、軍を進めるに従いその数を増し、次々に幕府軍を破り進軍した。
 5月22日、大潮に乗じて稲村ヶ崎を突破し鎌倉に攻め入った義貞は、北条高時ら一族を東勝寺においての自刃に追い込み、鎌倉幕府を滅ぼした(参考:鎌倉幕府の滅亡)。
 しかし、後醍醐天皇の「建武の新政」は、長くは続かず、足利尊氏を棟梁としての武家による政治が望まれるようになると、尊氏と義貞は敵対し、義貞は敗れて越前で最期を遂げた。
 (「鎌倉手帳」hpより)



新田義貞 【にった・よしさだ】

 生年: 正安3 (1301)
  没年: 暦応1/延元3.閏7.2 (1338.8.17)
  南北朝時代の武将。新田朝氏(朝兼)の長子,小太郎を称する。文保1(1317)年ごろに家督を継ぎ,上野国(群馬県)新田荘を本拠地とする新田一族の惣領となる。
 正慶1/元弘2(1332)年,河内(大阪府)の楠木正成攻めの幕府の動員令に応じたが,病気を理由に中途で帰国した。翌元弘3(1333)年4月,執権北条氏の守護国である上野国で,楠木合戦の戦費調達のための有徳銭の徴集使として得宗被官の紀出雲介親連と黒沼彦四郎入道が新田荘世良田宿に入部してきた。
 義貞はその過酷な徴集をとがめ,親連を捕らえ,黒沼を斬った。この事件は幕府に対する公然たる反抗に映じた。幕府による誅伐の機先を制して,5月8日に義貞は荘内一井郷の生品明神で挙兵し,東山道を西進して越後(新潟県)の新田一族や上野・信濃の諸士を八幡荘(高崎市)に糾合し,翌9日鎌倉街道を武蔵に進撃した。
 一方,12日に同じ新田荘の世良田で,紀政綱,世良田満義らに擁されて足利尊氏の子千寿王(4歳)が蜂起し,義貞軍と合流した。
 ここに,新田・足利連合軍が形成され,尊氏の六波羅攻めと相呼応する形で,分倍河原(東京都府中市)合戦で北条軍を撃破したのち,稲村ケ崎を突破した義貞は,22日に鎌倉を攻め落として北条高時以下を自尽させ鎌倉幕府を滅亡させた。
  後醍醐天皇の建武政府のもとで,義貞は越後・上野の国司に任ぜられ,左兵衛佐(のちに左近衛中将),従四位上の官位を得た。建武2(1335)年,南北朝内乱が開始されると,南朝方の侍大将として,箱根竹ノ下合戦,播磨の赤松則村攻め,兵庫湊川合戦,京都合戦などに転戦したが,戦い利あらず天皇を擁して比叡山に立てこもった。
 3年8月,両朝の一時的和睦の際,恒良親王を擁して越前(福井県)に下向して金ケ崎城,黒丸城などに拠り,越前守護斯波高経らと抗争していたが,藤島城付近の燈明寺畷で不慮の戦死を遂げた。
 南朝方一筋に転戦に次ぐ転戦の末の最期であった。安養寺明王院(新田郡尾島町)に葬られる。
 <参考文献>尾島町編『尾島町誌』通史編上
 (「kotobank」hpより)


 父に所望され、父母と三人で、新田義貞が挙兵の折に成就祈願した「生品神社」に行ったことがあります。
 群馬県太田市新田市野井町645

新田荘遺跡(生品神社境内) ※国指定史跡(遺跡地・平成12年11月1日指定)
 元弘3年(1333)5月8日、新田義貞が後醍醐天皇の綸旨を受けて、鎌倉幕府を滅ぼすための兵を挙げたところです。「太平記」には「五月八日ノ卯刻ニ、生品明神ノ御前ニテ旗ヲ挙、」(巻第十)と記載されています。神社に参集した軍勢は150騎に過ぎませんでしたが、兵を進めるに従い数を増やしていったということです。
 生品神社境内は、昭和9年(1934)に「生品神社境内新田義貞挙兵伝説地」として国指定史跡に指定されましたが、平成12年(2000)に「新田荘遺跡生品神社境内」として、面積を広げて指定されました。境内には義貞が旗を挙げたと伝えられる「旗挙塚」や陣を構えたと伝えられる「床几塚」があり、神社拝殿の前には義貞が軍旗を掲げたと伝えられるくぬぎの木の古木が保存されています。
 現在では、毎年5月8日に「鏑矢祭」が行なわれています。これは、義貞が旗挙げの際に鎌倉に向かって矢を放ったという故事にならったもので、生品小学校の6年生の児童が鎌倉に向かって矢を放つ行事です。
 (太田市hpより)


P1080897(1)_201401121644415cb.jpg



関連記事
スポンサーサイト



                 

コメント