FC2ブログ
        

平家物語 巻第九 木曾最期

2014/ 02/ 03
                 
 日本古典全書 平家物語(上・中・下) 冨倉德次郎校註 監修 佐々木信綱 新村出 津田左右吉 柳田國男 山田孝雄 和辻哲郎 の三冊本が手元にあります。初版は、上巻昭和23年9月10日、中巻昭和24年2月25日、下巻昭和24年6月10日に、それぞれ発行されています。
 「平家物語」は、夥しい異本群を持っているとまえがきの上で、『本文は米澤圖書館藏、舊林泉文庫藏の「平家物語」を底本とした。そして底本は漢字主骵平假名交り文である。いまこれと同系統の寫本にして平假名書きである京都府立圖書館藏の葉子十行本及び沼澤龍雄氏藏の葉子十行本を參酌して校訂した。』と、しています。

 平家物語は、全篇13巻、185章で成り立っています。
 『「平家物語」の成立事情、従って、その成立年次については、今日なほ明確な説を立て得ない。』と、冒頭の解説で述べています。
 『平家物語を榮枯盛衰の人生相と見るときは、實に哀れぶかい人生悲劇でなくてはならない。』と解説者は述べていますが、また一方で、『その烈烈たる闘爭の氣迫は新興武人の特質の強調に外ならない。ここの「平家物語」の描く武人の新時代が見えるといへるのである。・・・「根間(ねこま)の章に見る義仲の一面愛すべきその田舎者振りなど――それらはいづれも正に新時代に躍り出た武人の新しき姿の活寫でなくてなんであろう。・・・』 『また會話は當時の口話をそのまま寫したもので、東國の武士言葉の巧妙自由な使用が目立つ。例へば、・・・猫殿のまれまれにわいたるに物よそへ(巻八猫間)  さらばよい敵でごさんなれ。同じう死なばよからう敵に懸合うて大勢の中でこそ討死をもせめ(巻九木曾最期)  そこに東國武士のきびきびした活躍ぶりが動く。』、『朗詠風の對句と和文脈の巧妙な錯綜、國語化された漢語と和語との美しき階調――ここに律語と散文とは、全き融合を見せて、語り物としての文骵の完成が見えるのである。』
とも記しています。


 木曾最期   (きそのさいご)
 木曾殿は信濃より、巴・款冬とて、二人の美女を具せられたり。款冬は勞りあつて、都にとどまりぬ。中にも巴は色白く髪長くして、容顔誠に美麗なり。有難き強弓、精兵、弓矢・打物取っては如何なる鬼にも神にもあふと云ふ一人當千の兵なり。究竟の荒馬乘り、惡所落し、軍といへば、まづさねよき鎧きせ、大太刀・強弓持たせて、一方の大蒋に向けられけり。度度の高名、肩を並ぶる者なし。されば多くの者ども落ち失せ討たれける中に、七騎がうちまでも巴は討たれざりけり。

 木曽は長坂を經て、丹波路へとも聞ゆ。龍花越にかかって、又、北國へとも聞えけり。かかりしかども、今井が行末の覚束なさに、勢田の方へ落ち行く程に、今井四郎兼平も、八百餘騎で、勢田を固めたりけるが、其の勢纔かに五十騎ばかりに討ちなされ、旗をば巻き、主の行末の覚束なさに、都の方へ取って返して上る程に、大津の打出濱にて、木曾殿に行き合ひ奉る。中一町ばかりより、互にそれと見知って、主従駒をはやめて寄り合ふたり。木曾殿、今井が手を把つて、「義仲六條河原にていかにもなるべかりしかども、所所で討たれんより、汝と一所でいかにもならんと思ふ為に、多くの敵に後を見せて、是まで遁れたるはいかに」と宣へば、今井四郎「御諚誠に忝く候。兼平も勢田にて如何にもなるべう候ひつれども、御行末のおぼつかなさに、是まで遁れ參つて候」と申しければ、木曾殿「さては契りは未だ朽ちざりけり。義仲が勢、山林に馳せ散って、此の邊にもぞひかへたるらん。汝が巻きて持たせる旗揚げさせよ」と宣へば、今井が旗を指し揚げたり。京より落つる勢ともなく、勢田より落つる者ともなく、今井が旗を見つけて三百餘騎ぞ集まる。木曾斜めならずに悦び、「此の勢あらば、などか最期の軍せざるべき。爰にしぐらうて見ゆるは、たが手やらん」「甲斐の一條次郎殿の御手とこそ承り候へ」「勢いかほどあらん」「六千餘騎とこそ聞え候へ」「さては互によい敵、同じう死ぬとも、好き敵にあうて、大勢の中にてこそ討死をもせめ」とて、眞先にぞ進んだる。

 木曾佐間頭、其の日は赤地の錦の直垂に、唐綾縅の鎧着て、いか物づくりの太刀を帯き、鍬形うつたる甲の緒をしめ、廿四さいたる石打の矢の、其の日の軍に射て少少殘つたるを、頭高に負ひなし、滋籐の弓の、眞中取って、木曾の鬼葦毛と云ふ聞ゆる名馬に、金覆輪の鞍を置いてぞ乘つたりける。鎧ふんばり立ちあがり、大音聲を揚げ、「日來は聞きけんものを、木曾の冠者、いまは見るらん、左馬頭兼伊豫守、朝日将軍源義仲ぞや。我と思わん人人は、義仲討って兵衛佐に見せよや」とて、、をめいてかく。一條次郎「唯今名乗るは大将軍ぞ、餘すな者ども、漏らすな若黨、討てや」とて、大勢の中に取り籠めて、吾討ち取らんとぞ進みける。木曾三百餘騎、六千騎が中へ懸け入り、縦樣・横樣・蜘手・十文字に懸け破って、後へつつと出でたれば、五十騎ばかりになりにけり。そこを破って行く程に、土肥次郎實平2千騎でささへたり。そこをも破って行く程に、あそこでは四五百騎、ここではニ三百騎、百四五十騎、百騎ばかりが中を懸け破り懸け破り行く程に、主從五騎にぞなりにける。五騎が内までも、巴は討つ¥たざりけり。木曾殿、巴を召して、「己は女なれば、是よりとうとう何ちへも落ち行け。義仲は討死をせんずるなり。若し人出にもかからずば、自害をせんずれば、木曾の最期の軍に女を具せられたりなんど、云われん事こそ口惜しけれ。とうとう落ち行け」と宣へども、猶落ちも行かざりけるが、あまりにつよう云われ奉って、「あはれ、よからう敵がな。木曾殿の最期の軍して、見せ奉らん」とて、、ひかへて敵を待つ處に、武藏國に、聞こえたる大力、おん田の八郎師重、三十騎ばかりで出で來たり。巴其の中へ懸け入り、おん田の八郎に押し双べ、むんずととつて引き落し、吾がつたりける鞍の前輪に押し付けて、ちつともはたらかさず、頸ねぢ切って捨ててんげり。其の後巴は物具脱ぎ棄て、東國へぞ落ちぞ行く。手塚太郎討死す。手塚別當落ちにけり。

 木曾殿、今井四郎、今はただ主從二騎になつて、宣ひけるは、「日來るは何とも覺えぬ鎧が、今日は重うたつたるぞや」と宣へば、今井四郎申しけるは、「それは御方につづく御勢が候はで、臆病でこそさは思し召され候ふらめ。御身も未だ羸れさせ給ひ候はず、御馬もよわり候はず。何に依ってか一領の御著背長は重うは候ふべき。兼平一騎をば餘の武者千騎と思し食され候はずや。射殘したる箭、七つ八つ候へば、暫く防ぎ矢仕り候はん。あれに見え候ふをば、粟津の松原と申す。君はあの松の中へ入らせ給ひて、靜に御自害候へ」とて、打ち行く程に、又荒手の武者五十騎ばかりで出で來たり。「兼平は此の御敵防ぎ候はん。君はあの松の中へ入らせ給へ」と申しければ、義仲「六條河原にて如何にもなるべかりしかども、汝と一所で如何にもなり候はん爲にこそ、是までは遁れたれ。一所でこそ討死をもせめ」とて、馬の鼻を並べ、既に懸けんとし給へば、今井四郎、急ぎ馬より飛び下り、主の馬の口に取り付き、涙をはらはらと流し申しけるは、「弓矢取りは年來日來いかなる高名候へども、最期の時不覺しつれば、永き瑕にて候ふなり。御身もはや、羸れさせ給ひ候ひぬ。謂ふ甲斐なき人の郎党に組み落されて、討たれさせ給ひなば、さしも日本國に聞えさせ給へる木曾殿をば、某が郎党の手にかけて討ち奉たりなんど申されん事口惜しう候へ。ただ理をまげて、あの松の中へ入らせ給へ」と申しければ、木曾殿さらばとてただ一騎粟津の松原へぞ懸け給ふ。

 今井四郎ただ一騎、五十騎ばかりが中へ懸け入り、鎧ふんばり立ちあがり、大音聲をあげて、「遠からん者は音にも聞き、近からん人は目にも見給へ。木曾殿の御めのとごに、今井四郎兼平とて、生年三十三に罷りなる。さるものありとは、鎌倉殿までもしろしめたるらんぞ。兼平討って、兵衛佐殿の見參に入れや」とて八筋の矢を差しつめ散散に射、死生は知らず、やには敵八騎射落す。其の後打物のさやをはづいて、さんざんに切つてまはるに、面を合はする者ぞなき。「ただ射取れや殿原」とて、矢さきをそろへて、雨の降る樣に差しつめ、散散に射けれども、鎧好ければ裏かかず、開間を射ねば手も負わず。

 さる程に、木曾殿はただ一騎粟津の松原へ懸け給ふ。比は正月廿一日、入逢ばかりの事なるに、薄氷は張りたりけり。深田ありとも知らずして、馬を颯と打ち入れたれば、馬の首も見えざりけり。あふれどもあふれども、打てども打てども動かず。木曾殿、今井が生末の覚束なさに、振り仰ぎ給へる内甲を、三浦石田次郎為久、おつかかり能つ引いてひやうどはなつ。木曾殿内甲を射させ、痛手なれば甲の眞甲を馬の首に當ててうつ俯し給へる所を、石田が郎党、二人落ち合ひて、木曾殿の頸をば終に賜つてんげり。太刀の鋒に貫き、高くさし上げ、大音聲を揚げて、「此の日來日本國に聞えさせ給へる木曾殿を三浦、石田次郎爲久が討ち奉るぞや」と名乘りければ、今井四郎、軍しけるが、是を聞いて、「今は誰を
憚はんとて、軍をばすべき。見給へ東國の殿原、日本一の剛の者の自害する手本よ」とて、太刀の鋒を口に含み、馬より倒に飛び落ち、貫かれてぞ失せにける。さてこそ粟津の軍はなかりけれ。


平家物語 上)

平家物語 (中)

平家物語 (下)


ひこうき雲


兼平庵「安置像」






 
 
関連記事
スポンサーサイト



                 

コメント