FC2ブログ
        

京都御所

2017/ 01/ 23
                 
 記憶では午後4時までとなっていた、京都御所のクローズ時間。
 午後3時半までに辿りつけば入場できるだろうと思い、京都御苑内の砂利道を急ぎ足で駆け抜け、清所門(せいしょもん)前に到着したのが、午後3時21分。間に合ったとホッとしたのも束の間、入場制限が午後3時20分となっていたことを思い知らされました。

 ご存知の通り、今までは、特別なケースを除き、事前申込による「春秋の一般公開」で入場することができましたが、平成28年7月26日(火)から通年の公開となりました。
 そのときの、「宮内庁京都事務所」の発表文書を切り抜きしてみました。

《 ・・・京都御所参観希望者の利便性をより高めることを目的として,この度,下記により土日曜・祝日を含め一年を通して申込手続不要の公開に再編の上実施することとしましたので,お知らせいたします。
-記-
1.通年公開開始日 :平成28年7月26日(火)
  なお,月曜日(祝日の場合は翌日),年末年始(12月28日から1月4日),
  行事等の実施のため,支障のある日は休みとします。
2.公開時間
  9月及び3月 9:00~16:30(入場は15:50まで)
  10月~2月 9:00~16:00(入場は15:20まで)
  4月~8月  9:00~17:00(入場は16:20まで)
3.入場門
  清所門(せいしょもん)からお入りください。
  所在及びコースは別図のとおりです。   
4.入場方法
  申込手続不要でどなたでも自由に入場が可能です。
  入場時に手荷物検査を行います。
5.注意事項
(1) 皇室の御使用,国公賓の接遇等,運営上の都合により中止となる場合があります。
  その場合には宮内庁ホームページで速やかに周知いたします。
(2) ペットの同伴,スーツケース等の大型の荷物・危険物の持ち込みはできません。
(3) 施設の保全管理上,ロープ内の通行を遵守し,職員の指示に従ってください。
(4) 以下の行為は禁止とします。
  喫煙,飲食,スケッチ,拡声器の使用,プラカード・横断幕の掲示,ドローンの持ち込み
  撮影,他の来場者に迷惑のかかる行為。
(5) 写真撮影は可能ですが,業務用大型カメラ及び三脚・脚立の使用はできません。
(6) 駐車場・駐輪場はありませんので,公共交通機関をご利用ください。
(7) 場内は砂利となっております。歩きやすい靴でご来場ください。
(8) 車椅子の貸出があります。職員にお申し付けください。

※ ご希望の方に対して,日本語及び英語でのガイドツアー(無料)を実施します。
 ・・・》

  
 皇居や京都御所などの警備は、国家公務員が担っていることをご存知ですか。
  職員は、皇宮護衛官、警察庁事務官及び警察庁技官で構成され、身分はいずれも国家公務員です。天皇皇后両陛下や皇族各殿下の護衛と、皇居、御所、御用邸などの警備を専門に行う警察で、勤務地は主として東京都にある皇居及び赤坂御用地ですが、京都御所など1都1府4県に勤務地〈※〉があります。

 〈※〉
京都府
 桂離宮
 修学院離宮
奈良県
 正倉院
静岡県
 須崎御用邸
神奈川県
 葉山御用邸
栃木県
 那須御用邸
 御料牧場
東京都
 皇居
 赤坂御用地
 常盤松御用邸







                 
        

京都の七福神めぐり 京都の伊藤若冲展 滋賀大津の義仲忌

2017/ 01/ 22
                 
 京都と滋賀に行ってきました。

 京都では、1月限定の「都七福神めぐり」の観光バスツアーに加わることができました。
 17人のご一行という少人数だったということとあわせ、バスガイドさんのかゆいところに手が届く至れり尽くせりのプロのお手並みをとくと味わうことができ、とてもアットホームな雰囲気の中で一日を楽しむことができました。
 昼食は、東寺(とうじ)・洛南会館での七福神弁当です。
   七福神弁当 東寺・洛南会館 20170120
 一.ゑびす神・・・鯛・・・・・・商売繁盛の神
 一.弁財天・・・花蒲鉾・・・・・・学問の神
 一.寿老神・・・長老木・・・・・・長寿の神
 一.大黒天・・・稲穂・・・・・・開運招福の神
 一.福禄寿神・・・昆布巻・・・・・・除災の神
 一.毘沙門天・・・かずのこ・・・・・・安産の神
 一.布袋尊・・・利休麩・・・・・・縁結びの神
  ○その他山菜をあしらって添え物を供してあります。
 

 
 相国寺(しょうこくじ)で開催している、「伊藤若冲展」を観てきました。
 通常は午後4時閉館となっていますが、若冲展に限り午後5時閉館となっていましたので、滑り込みセーフでの入館となりました。

 今回の京都行では、「京のおばんざい」という名にこだわって、朝食と夕食を意識してメニューのあるところを選びました。
おばんざい バイキング 20170121
 (「京のおばんざい」・ビュッフエスタイル〈朝食〉)

 昼食は、「京都の蕎麦」を選んで食べ比べしてみました。
にしんそば  20170120
 (温にしんそば〈松葉〉)



 大津(膳所〈ぜぜ〉駅徒歩6分)、義仲寺での「義仲忌」は、昨年まで1月の第3日曜日に営まれていましたが、今年から第3土曜日となり、834回忌の法要は義仲公命日の1月21日(新暦3月5日)となりました。
(〈※〉「義仲寺案内」パンフレットによる義仲公の命日は正月20日と記載されています。)
  義仲寺 義仲忌 20170121








                 
        

「巴御前」について 史実と物語の狭間に…

2015/ 06/ 04
                 
 平家物語巻九「木曾最後」に、女武者「巴御前」が登場します。
 巴を主人公とした物語に、彼女はどんな人物像として描かれているのでしょうか。

20150604①

まずは、発行が古い順に、「巴御前」の立ち位置を見ることにいたします。
①義仲との関係 ②中原兼遠との関係 ③樋口次郎兼光との関係 
④今井四郎兼平との関係 ⑤義仲との別れ ⑥落ち延び先 
⑦特筆事項

20150604②

著者:富田常雄
発行所:株式会社大日本雄弁会講談社
「巴御前(上)忍草の巻)」 :昭和29年(1954年)10月15日第1刷発行
「巴御前(中)旭将軍の巻」:昭和29年(1954年)10月15日第1刷発行
「巴御前(下)愛染の巻」 :昭和29年(1954年)10月15日第1刷発行
①妻 (巴は義仲より三歳若い)
②中三権守中原兼遠の娘
③樋口兼光は巴の兄
④今井兼平は巴の兄。中三権頭兼遠の四男。旭将軍の乳母子。
⑤「とく、とく、北へ落ちよ。巴、そなたは女性ゆゑ、敵とて荒々しうは扱わぬであらう」 ・・・ 「悲しや」 巴はさう言って、涙を落とした。「館のお言葉に叛(そむ)くは許されず、さればとて、今生の別れと仰せあるに、妾ひとりが落ちのびたとて生きる効ひもなきに」 ・・・ 「さらば」 「さらばでござりまする」 涙をためて見上げる巴に頷いて見せてから、義仲は馬首をめぐらした。 十六騎の後姿が樹にさへぎられて見えなくなるまで、巴はその場に独り立ちつくした。 孤独の思ひがひしひしと身に迫ってきた。
⑥「作者はすぐる夏、義仲の館跡たる木曾山下に旅して、木曾の渓流を眼にしながら、巴が運命に従順な女性であったことをしみじみと思った。
 ちなみに、「大日本史」は伝へてゐる。
 巴は後、尼となり、越後の友松に棲んで、九十一歳にして世を去る。


20150604③

著者:矢代まさ子
発行所:株式会社世界文化社 1985 Printed in JAPAN
「巴御前」-ロマン・コミックス 人物日本の女性史 13-
①妾(おもいもの) 
②中原兼遠の養女 
 ・義仲の乳母子(めのとご)〈元は中原家の端女(はしため)〉
③・巴が中原兼遠の養女になったことにより、樋口兼光は巴の兄となる。
④・巴が中原兼遠の養女になったことにより、今井兼平は巴の兄となる。
⑤・「では 巴 最後の戦(いくさ)を… ご覧じよ! おさらば 殿! 四郎殿!」
⑥・巴のその後の消息は 歴史の中から忽然と消える 各地に巴伝承を点在させて…… いわく「巴の尼」という尼の存在 いわく 国々をわたり歩いている 『平家物語』を語り伝えた「ごぜ」としての巴 ある漁村に現れた「ともの君」という女性…… その どれもが とりとめのない はかない望みのように やがて どこかへ かすんでゆく 
⑦ ・巴は義仲より三歳下

20150604④

著者:松本利昭 
発行所:株式会社光文社「光文社文庫」
文庫書下ろし/長編歴史小説  
「巴御前(一)」:1989年11月20日初版1刷発行
「巴御前(ニ)」:1990年1月20日初版1刷発行
「巴御前(三)」:1990年3月20日初版1刷発行
①妾(しょう)
②中原兼遠の三女。
③樋口兼光は巴より六歳上の長兄で、中原兼遠の次男。
④今井兼平は巴より三歳上の兄で、 中原兼遠の四男。
⑤⑥ ・・・ 義仲と兼平が馬首を勢多の方に向けた。巴は反対の北に向けた。北には叡山への登山口の東坂本があったと気づいた。「さらばじゃ」 義仲の声に、巴も反射的に馬腹を蹴っていた。 巴は振り返らなかった。 「義仲殿! 兼平兄者!」 薄暮がかった夕暮に近い琵琶湖の空に向かって大声で叫びながら一散に駆けて行った。  完
⑥落ち延び先 ―
⑦・義仲の内室は「山吹」。山吹は中原兼遠の実兄、海野兼保の次女。

20150604⑤

著者:鈴木輝一郎
発行所:角川書店
「巴御前」:平成16年(2004年)12月25日初版発行
① ・最後の女 ・巴の初登場のシーンの記述:(女が、訪れた。単身であった。京からの使者だという。 ・・・ この体術者は並ではない。白拍子は仮の姿であって、忍びの者であろう。・・・ )
② ― 関係なし
③ ― 関係なし     
④ ― 関係なし     
⑤ ・・・ 視界が、暗くなってゆく。 誰かに、抱きしめられる感触があった。 それが誰なのか、義仲には、わかっている。 言いたいことがあった。 だが、喉を貫かれていた。 義仲は、唇だけで、巴に告げた。 そなたは、死ぬな。 その唇に、巴の唇がかさねられた。つめたいはずの唇であった。 何かを吸われるはずの唇であった。 しかし、暖かい、そして、熱い唇であった。 自分の身体が冷たくなっているせいだろうか。義仲は、もはや漆黒の闇となった視界のなかで、そう、思った。 ―ちがいます。 かすかに、義仲の脳裏に、巴のおもいが流された。 ―あなたに……
 すべてを聞き終える前に、義仲の思念にも、闇が訪れた。
⑥落ち延び先 ―
⑦・義仲の正室は養父中原仲三権守兼遠の娘「福島の方=実名は鞆絵(ともえ)。
 ・中原兼遠は義仲の養父。 
 ・樋口兼光は中原兼遠の息子
 ・今井兼平は中原兼遠の息子であり義仲の乳兄弟。

20150604⑥

著者:諸田玲子
発行所:株式会社平凡社
「ともえ」:2013年9月4日初版第1刷発行
① ・側室 ・主君にして想い人、
② 中原兼遠の愛娘
③ 〈「兄二人」と表記あり〉
④ 〈「兄二人」と表記あり〉
⑤ 「せめて、兄たちが馳せ参じるまでは、おそばに……」 ・・・ 「ならぬ。行けッ」 「なれば自害はせぬと約束してくださいまし。必ず逃げ延びると」 「わかった行け。行ってくれッ」 ・・・ 「心を決めた。巴は別れも告げず、義仲の背中に最後の一瞥(いちべつ)も告げず、速やかに隊をはなれた。 たわわな髪が黒鳥(こくちょう)の羽のようにひるがえって、雷光のごとく鞭が宙を切り裂く。 
⑥落ち延び先 「〈安房国朝夷郡〉それでも巴は、近江へゆくつもりでいた。いた、ゆけると信じていた。」
⑦特筆事項: ・乳兄弟。・嫡子を生み育て ・弟として世話することになった駒王丸。 ・正室は藤原伊子(ふじわらいし)

20150604⑦

 埼玉県嵐山町にお住いの、長島喜平氏が著した、「朝日将軍 木曽義仲 史実と小説の間(発行:平成2(1990)年12月10日 発行所:株式会社国書刊行会)による、巴に関することは次のようにまとめておられます。
〈26~27ページ〉
〔中原氏系図〕
中原兼遠(中三権頭ちゅうさんごんのかみ)
 |
|―中原太郎兼秀
|
|―樋口次郎兼光(木曾四天王)
|
|―今井四郎兼平( 〃   )
|
|―落合五郎兼行
|
|―巴(義仲の妾)
 |
|―山吹姫(義仲妾 吉高の母) (?)

 ※山吹姫については、いくつかの説がある。
 中原兼遠・多胡家国・海野幸広・金刺盛澄・斎藤実盛・今井兼平などの娘という諸説紛々の伝承が多い。そのうち中原兼遠か、金刺氏の娘というのが、割合に真実性があるようであるが、誰の娘であってもよい。想像したり、伝承があったりするのも夢があって面白いと思う。

 義仲の正室については、何か所かで記載されていますが、
 年表では、「1183年(寿永2年)11月21日頃、義仲 篠原基房※の娘伊子と結婚」とあります。
 177ページの〔義仲松殿の娘と結婚〕では、「11月21に日には、調子にのった義仲でも、天皇・法皇はおろか、関白にもなれないと思い、そこで前関白(さきのかんぱく)藤原基房(もとふさ)(松殿といった)の娘を妻にし、松殿の聟(むこ)となった。と書かれています。
 また、184から185ページにかけて、〔義仲貴女と別を惜しむ〕では、「 ・・・ 貴女のなごりを惜しみつつ、・・・ 」の「貴女」についてをわざわざ次の通りことわり書きをしています。『 「貴女」とは、貴い女ということで、巴でも山吹でもなかった。藤原基房の娘で、先に結婚して正妻としたものである。』と。

≪想坊メモ:「篠原基房」と書かれいますが、単なるミスプリであろうと思われます。「藤原基房」と読み直してください。≫

「義仲との別れと落ち延び先」については、187から188ページに次のように書き記しています。

 〔巴御前〕(巴は戦いがおさまってから鎌倉へ下り、和田義盛があずかり、妻にしたという。こうして九十一歳まで生きたと伝えられているが、それは、果たしてどうであったか。伝承ではっきりしていない。)
 〔義仲の最後〕「(兼平は)やがて、この浜で、一条次郎・土肥実平などと戦い、巴は、武蔵国の大刀の恩田八郎師重を、自分の乗った馬の鞍に押しつけて、頸をねじ切って棄てたという。 義仲は、ここで巴を返し、今井四郎兼平と義仲主従二人 ・・・ 」
 というさっぱりした記述となっています。巴は義仲の死に目にはあわず何処ぞへと逃げ延びていきます。

 

                 
        

能「巴」 大河ドラマ…?!

2015/ 05/ 25
                 
 能「巴(ともえ)」は、修羅能(※)として唯一の「女人が主役」の作品です。
 義仲の死をしかと見届けた巴[能]と、命を受け軍(いくさ)の途中で落ち延びてゆく巴[平家物語」と。異なる二人の「巴」が現世に交錯しています。 

 NHKの2020年、大河ドラマは、「巴御前」に決まる。という仮説を立てて、筋書きを追ってゆくと、平家物語による巻九の「木曾最後」の描写にかかるところでは、能の「巴」に軍配があがるようです。

 「物語」というと、作り話にも通じます。「能」の世界もまた然り。題材として得たものをどういう推し量り方をして観る者の心を引き込んでゆくのか。

 「巴御前(ともえごぜん)は、木曽義仲(きそよしなか・源義仲)の側室。中原兼遠(なかはらかねとお)の娘。
 (ちなみに、義仲の正室は、藤原伊子(ふじわらのいし)で、父は関白・松殿基房。後に源通親の側室となり道元(曹洞宗開祖)を生んだとされる。松殿伊子とも記されています。)
 樋口兼光(ひぐちかねみつ・中原兼光)、今井兼平(いまいかねひら・中原兼平)の兄弟は、巴の兄。」と、ここで私はあらためて定義づけをします。
 そうすることによって、物語は先に進むことができます。
 主役が主人公です。
 テレビドラマ「巴」の脇役陣は、木曽義仲、義仲の正室、中原兼遠、樋口次郎兼光、今井四郎兼平などですが、脇役が主人公をくった筋書きとなると、あっちを向いて、こっちを向いてという風になって、照準が定まらなくなります。
  義仲、兼遠、兼光、兼平、そして藤原伊子の没年は後世の書物それぞれに記載がありますが、さいわいにして巴御前だけは没年とも不詳です。
 没年が判らないということは裏を返して言うと、自由に色づけが出来るキャラクターということにもつながります。
 
  今まで、巴を主役にした小説は、お馴染み姿三四郎の著者、富田常雄が1954年に「巴御前」を、鈴木輝一郎が2004年に「巴御前」をそれぞれ著しています。二人の作品は、それぞれどんなような展開になっているのか、とても気にかかります。早く一読する機会を得ようと思います。

 
 能での巴は、義仲と自害を望みますが、〈汝(なんじ)は女なり、忍ぶ便りもあるべし、これなる守り小袖を、木曾に届けよこの旨を、背かば主従三世(※)の契り絶え果て、永く不興・・・〉との義仲の言葉を受け、息絶えた主人を後にして湖畔(琵琶湖)を立ち去ります。
 作中で、巴の霊が粟津(滋賀県)を旅する僧侶に、涙とともに述べたのが、〈落ち行(ゆ)きし後ろめたさの、執心を弔(と)ひて賜(た)び給(たま)へ〉という願いでした。



注記:※
 ・修羅能(しゅらのう):能の演目の中で武人がシテになる曲を言う。修羅物とも言う。
  能柄:二番目物で、凡そ50分の上演。
 ・主従三世(しゅじゅうさんぜ):主従の間柄には、現在だけでなく過去・未来にもわたる深い因縁があるものだということ

 
《メモ》
・巴御前:生没年不詳
・木曽義仲:久寿元年(1154)年-寿永3年1月21日(1184年3月5日)
・藤原伊子:仁安2年(1167年)-承元元年(1207年)
・中原兼遠:生年不詳-治承5年(1181年)
・樋口兼光:生年不詳-元暦元年2月2日(1184年3月15日)
・今井兼平:仁平2年(1152年)-寿永3年1月20日(1184年3月4日)


 
 平家物語(日本古典全書「平家物語」・中 富倉徳次郎校註 昭和31年5月20日第4版発行 発行所朝日新聞)による平家物語巻第九「木曾最後(きそのさいご)」から、「巴」の記述するところを拾い読みしてみましょう。

 《 木曾殿は信濃より、巴(ともゑ)・款冬(やまぶき)とて、二人の美女(びぢよ)を具せられたり。款冬(やまぶき)は労(いたは)りあつて、都にとどまりぬ。中(なか)にも巴(ともゑ)は色白く髪長くして、容顔(ようがん)誠に美麗(びれい)なり。有難き強弓(つよゆみ)、精兵(せいびゃう)、弓矢(ゆみや)・打物(うちもの)取っては如何なる鬼にも神(かみ)にもあふと云ふ一人當千の兵(つはもの)なり。究竟(くつきよう)の荒馬乗(あらうまの)り、悪所落(あくしよおと)し、軍(いくさ)といへば、まずさねよき鎧(よろひ)きせ、大太刀(おほだち)・強弓もたせて、一方(いつぽう)の大将に向けられけり。度度(どど)の高名(かうみやう)、肩を並ぶる者なし。されば多くの者ども落ち失せ討たれける中(なか)に、七騎がうちまでも巴は討たれざりけり。
 ・・・   ・・・   ・・・
 ・・・ そこをも破って行く程に、あそこでは四五百騎、ここではニ三百騎、百四五十騎、百騎ばかりが中を懸け破り行く程に、主従五騎にぞなりにける。五騎が内までも、巴は討たれざりけり。木曾殿、巴を召して、「己(おのれ)は女(をんな)なれば、是(これ)よりとうとう何(いづ)ちへも落ち行け。義仲は討死をせんずるなり。若(も)し人出(ひとで)にもかかわらずば、自害(じがい)をせんずれば、木曾の最後の軍(いくさ)に女を具(ぐ)せられたりなんど、云はれん事こそ口惜しけれ。とうとう落ち行け」と宣へども、猶落ちも行かざりけるが、あまりにつよう云はれ奉(たてまつ)て、「あはれ、よからう敵(かたき)がな。木曾殿の最後の軍(いくさ)して、見せ奉らん」とて、ひかへて敵(かたき)を待つ處に、武藏の國に、聞えたる大力(だいぢから)、おん田(だ)の八郎師重(もろしげ)、Ⅲ廿騎ばかりで出(い)で來(き)たり。巴(ともゑ)其の中(なか)へ懸け入り、おん田(だ)の八郎に押し双(なら)べ、むんずととつて引き落し、吾が乘つたりける鞍の前輪(まえわ)に押し付けて、ちつともはたらかさず、頸ねぢ切つて捨ててんげり。其の後巴は物具脱ぎ棄て、東國方(とうごくかた)へ落ちぞ行く。・・・ ・・・ 》



讀賣新聞 2015年(平成27年)5月24日(日曜日) 「よみほっと」日曜版
 名言巡礼 能「巴」(作者不詳、室町時代) 義仲を慕う心根の深さ 2ページ
能「巴」イラスト①

能「巴」②

能 「巴」 ③



補足:能楽の流派(ウィキペディアによる)

能楽の流派は大和猿楽四座の系統の流派と、それ以外の日本各地の土着の能に分けられる。大和猿楽四座とは観世座、宝生座、金春座、金剛座であるが、更に江戸期に金剛座から分かれた喜多流の五つを併せて四座一流と呼ぶ。喜多流は金剛流より出、金春流の影響を受けつつ江戸期に生れた新興の一派であって、明治期にいたってほかの四流と同格とされた。喜多流は創流以来座付制度を取らず喜多座と呼ばれることはなかったので、五座ではなく四座一流となる。四座のうち奈良から京都に進出した観世、宝生を上掛りと呼び、引き続き奈良を根拠地とした金春、金剛を下掛りと呼ぶ。喜多は下掛りに含む。

大和猿楽四座は豊臣秀吉が政策的に他の猿楽の座(丹波猿楽三座など)を吸収させた為、江戸時代に入る頃には事実上、日本の猿楽の大半を傘下におさめていた。現在、四座一流の系統の能楽師たちは社団法人能楽協会を組織しており、能楽協会に加盟している者が職業人としての能楽師と位置づけられている。

一方、大和猿楽四座に統合されなかった能楽が残存している地域もあり、四座一流では演じられない曲目や、その地域独特の舞いを見ることが出来る。有名なものとしては、山形県の春日神社に伝わる黒川能、黒川能から分かれた新潟県の大須戸能などがある。

なお、能楽協会所属の能楽師によって上演される能楽においては、能楽全体の流儀はシテ方の流儀によって示される。また能に限り、家元を宗家と称する。これは江戸期に観世家に限り分家(現在の観世銕之亟家)を立て、これをほかの家元並みに扱うという特例が認められたことに基づくものである。分家に対し、本家が「宗家」と称したのがやがて「家元」の意味で用いられるようになったものである。現在では、同姓の分家との関係で用いられないかぎり、ほぼ「家元」の言いかえである。

                 
        

2014/ 02/ 04
                 
 「謡曲」。
 あるところを紐解くと、シテ方に、観世流、宝生流、金剛流、金春流、喜多流の五流派、ワキ方に、下掛宝生流とあります。
 また、あるところを検索すると、シテ方に、観世流、梅若流、宝生流、金剛流、金春流、喜多流、ワキ方に、宝生流、高安流、福王流とあります。
 いわゆる主な流派の外にも、幾つかの流派があるのだなというように理解しましたが、あとどんな流派があるのかななどと、思いを膨らませることにもなりました。

 そもそも「謡」とは何なのかということで、あちこち探してみました。

 

「謡」  ――ウイキペディア――

Question book-4.svg
この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。
出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(2008年4月)

謡(うたい)とは能の声楽に当たる部分のこと。またそれのみを謡うこともいう。大和田建樹によると、「うたう」という動詞の名詞形であるが、詠歌や小唄などと区別するため「うた」でなくて「うたい」と読ませたという[1]。江戸時代までは「謡」とだけ言い、謡曲という言葉が使われ始めたのはそれ以降である[1]。

能は本来舞・謡・囃子の三要素から成り立っている。謡は登場人物の台詞と地謡(じうたい)とよばれるコーラス部分を含めた、能において言語で表現される部分の総称ともいえるが、能の場合にはこれに特殊な台詞回しや節が付加されており、独立した芸能として鑑賞することが充分に可能であるために、室町末期ごろから能の舞台以外の場所で主に素人の習い事、娯楽として謡が盛んに行われた。これを「素謡」(すうたい)とも称する。

能および謡は身分の別無く愛好され、この風潮は町人に猿楽が禁じられた江戸時代中期以降になってもまったく衰えることなく、実際の能としては上演されない素謡専用の曲が新作されるほどであった。愛好家たちは謡の師匠について稽古し、謡宿(うたいやど)と呼ばれる会場で謡うことを楽しみ(町人でも謡だけなら大目に見られた)、能役者の側も積極的に謡の師匠としての活動を行うようになる。江戸中期ごろまで地謡がワキ方の所管であったために、当初各地の謡の師匠はワキ方の役者であることが多かったが、徐々にこれはシテ方に移行した。

参考文献[編集]
『謡曲百番』(『新日本古典文学大系』第57巻)-西野春雄校注(1998年、岩波書店)
脚注[編集]
[ヘルプ]
1.^ a b 『謡曲と能楽通』(通叢書 ; 第32巻) / 横井春野著 (四六書院, 1930)



②