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木曾三社神社・芭蕉句碑 -9-

2014/ 02/ 15
                 
 旅先でときおり「芭蕉句碑」をみかけます。
 全国でどれほどあるのでしょうか。
 
 木曾神社の境内には、芭蕉句碑が二つ置かれているとのことでしたので、あちこち見て回りましたが、「木曾三社神社」のパンフレットに載っている芭蕉句碑の一つを見つけるにとどまりました。


芭蕉句碑 木曾三社神社境内①
           芭蕉翁
 枯枝に烏のとまりけり 秋の暮 
             無満書

[陰]天保七季丙甲花節建立
    稲の香の来たり神風 まつのかぜ
             無満   
 ①天保七年(一八三六)九月
 ②藍沢無満社中建立
 ③藍沢無満筆
 ④勢多郡北橘村下箱田滝 木曾三社神社 
                

 田中昭三氏編による「芭蕉塚蒐」には、木曾神社境内にもう一つの句碑を載せています。
 (二つの句の記録は何れも、田中昭三氏のご子息のホームページ「草の道」より引用しておりますことを、申し添えさせて頂きます。)
 
 春なれや名もなき山の朝霞   芭蕉翁

[陰] 冬木立空さの春をまつものを  羅明
 ①慶応四年(一八六八)四月十八日
 ②根井行雄らの建立
 ③
 ④勢多郡北橘村下箱田滝 木曾三社神社


 1990年11月28日付の、田中昭三氏の「芭蕉塚について」の本文中に、近江の芭蕉句碑のことが述べられています。
 昭三氏のご子息もまた、父君の足跡を辿って、母君とともに、滋賀の義仲寺などあちこちを巡っています。

 その近江の海の畔には、義仲の乳飲み子兄弟であり、そして義仲の四天王として名高い、今井四郎兼平の墓があります。兼平庵では、毎年今井兼平墓前祭が1月21日に開かれています。今年も大津市の職員の方もお見えになっていました。

 知る人ぞ知る「兼平餅」。
 今年は旅の途中という事もあり、リクエストしていなかったのですが、箱田のご夫妻よりそんなにかさばるものでもなし、一堂に会した記念に・・・という温かいお言葉をかけてもらいましたので、有難く頂戴致しました。

兼平餅⑤

亀屋廣房

兼平餅 由緒前段

兼平餅 由緒後段



                 
        

木曾三社神社・敷島公園ばら園 -8-

2014/ 02/ 14
                 
 群馬県営敷島公園内にある県営野球場あたりから、敷島桜並木と称する国体道路を通り、国道17号線「下箱田」信号にクロスする手前まで、桜並木が延々と続いています。総延長はどのくらいになるのでしょうか。
 木曾神社にお参りするときなど桜が満開の時に、車でこの道路を通っていくと、桜の花の中に埋め込まれていくような錯覚を覚えるほどです。

 県営敷島公園に隣接する前橋市営敷島公園ばら園内に、萩原朔太郎の詩碑(「帰郷」の一節)があります。
 [ばら園管理事務所:群馬県前橋市敷島町262 電話027-32-2891]
 以前は県営敷島公園内にありましたが、1983年9月に、現在地に移設しました。
 (詩碑は、1955年5月13日に設置されています。)
 
 
 朔太郎詩碑「帰郷」

          朔太郎
わが故郷に帰れる日
 汽車は烈風の中を突き行けり
 ひとり車窓に目醒むれば
 汽笛は闇に吠え叫び
 火焔(ほのほ)は平野を明るくせり
 まだ上州の山は見えずや



帰郷

昭和四年の冬、妻と離別し二児を抱へて故郷に帰る
わが故郷に帰れる日
汽車は烈風の中を突き行けり。
ひとり車窓に目醒むれば
汽笛は闇に吠え叫び
火焔(ほのほ)は平野を明るくせり。
まだ上州の山は見えずや。
夜汽車の仄暗き車燈の影に
母なき子供等は眠り泣き
ひそかに皆わが憂愁を探(さぐ)れるなり。
鳴呼また都を逃れ来て
何所(いづこ)の家郷に行かむとするぞ。
過去は寂寥の谷に連なり
未来は絶望の岸に向へり。
砂礫(されき)のごとき人生かな!
われ既に勇気おとろへ
暗憺として長(とこし)なへに生きるに倦みたり。
いかんぞ故郷に独り帰り
さびしくまた利根川の岸に立たんや。
汽車は曠野を走り行き
自然の荒寥たる意志の彼岸に
人の憤怒(いきどほり)を烈しくせり。

[詩篇小解]
帰郷昭和四年。妻は二児を残して家を去り、杳(よう)として行方を知らず。我れ独り後に残り、蹌踉(そうろう)として父の居る上州の故郷に帰る。上野発七時十分、小山行高崎廻り。夜汽車の暗爾(あんじ)たる車燈の影に、長女は疲れて眠り、次女は醒めて夢に歔欷(きよき)す。声最も悲しく、わが心すべて断腸せり。既にして家に帰れば、父の病とみに重く、万景悉く蕭条たり。

 ・前橋市内には、萩原朔太郎の詩碑が、この「帰郷」のほか、6か所に設置されています。
 ・詩碑 ○「広瀬川」:厩橋下流広瀬川畔 ○「月夜」:諏訪橋際広瀬川畔 ○「才川町」:才川公園 
      ○「新前橋駅」:新前橋駅前広場 ○「利根の松原」:前橋こども公園内
 ・碑   ○大渡橋の碑:大渡橋上



朔太郎詩碑帰郷遠景
 朔太郎詩碑「帰郷」

萩原朔太郎記念館
 萩原朔太郎記念館


敷島公園ばら園入口
 敷島公園ばら園入口 [正面に見える山は「武尊山」(ほたかさん・ほたかやま)、標高2,158m。日本百名山、新花の百名山の一つ。沖武尊山の山頂付近と、前武尊山には山名の由来となっている、「日本武尊」の像が設置されています。]


敷島公園①
 敷島公園

敷島公園②
 敷島公園 [池後方に見える山は「赤城山」(あかぎやま・あかぎさん)、標高1828m。日本百名山、日本百景の一つ。




                 
        

木曾三社神社・前橋~渋川間チンチン電車 -7-

2014/ 02/ 14
                 
 路面電車は「電気軌道」という呼称が正しいようです。
 警笛を鳴らす音が「チンチン」と聞こえることから、チンチン電車という呼び方が定着したようですね。
 
  
 下箱田付近
  下箱田付近(橘山裾)を通るチンチン電車


 昭和29年3月1日に、前橋と渋川をつなぐ電気軌道路線は廃止になりました。
 (「東武鉄道ポータルサイト」:・昭和2年10月1日、伊香保軌道線<前橋~渋川間、高﨑~伊勢崎間、48.3kmを、東京電灯(株)から((東武鉄道が))買収。・昭和29年3月1日、前橋~渋川間廃止)
 それからは、木曾神社にお参りするにも、箱田の家に行くにも東武バスを利用しました。
 東武バス路線はいつから運転開始されていたのでしょうか。大型トレーラーバスに乗ったことも、懐かしい思い出の一つとなっています。木炭バスもまだ走っていましたよ。



電気軌道  「高松吉太郎の路面電車の歴史2」による。


36  前橋電気軌道  
明治23年開業した前橋-渋川の上毛馬車鉄道は、42年に至り高崎水電の電化工事に対抗して社名を前橋電気軌道と改め、全線電化の工事を急ぎ43年10月9日から電車運転に切換えた。
 これより約12年利根川をはさんで前記の高崎水電と派手な競争を演じたようである。
 大正10年に両社が合併してからの成行は前項<34.35>に記したから省略する。



34  高崎水力電気
高崎-渋川間の交通機関としては、すでに明治26年群馬馬車鉄道会社より高崎駅前より渋川町長塚に至る20.1キロに馬車鉄道が運転されていた。
 これは元碓氷馬車鉄道の設備をそのまま譲受けたもので、軌間610ミリ、在籍車20両となっている。
 41年10月高崎水力電気に合併され42年10月から電化工事と軌道改良に着手し、43年9月23日より全線電車となった。
 軌間1,067ミリ、平凡な4輪単車もマッチ箱のような馬車にゆられていた地元の人達の眼には、非常に新式なものに映ったらしい。
 大正2年渋川-伊香保間の伊香保電気軌道を合併し、同10年には競争相手であった前橋-渋川間の利根発電とともに東京電燈株式会社に合併し、東京から伊香保温泉に通ずる唯一の交通機関として活況を呈していたが、国鉄上越線の延長とともに次第に影が薄くなり、さらにバスの進出によってその地盤は年々蚕食されていった。
 昭和2年10月1日に東武鉄道に買収されてからも設備の改善という点ではなんら見るべきものなく、昭和28年には高崎-渋川間、次いで前橋-渋川間、31年には最後の渋川-伊香保問が廃止となり、上州名物”がたくり電車”も遂に地上から姿を消したのである。


35  伊香保電気軌道
 伊香保温泉の有力家木暮武太夫氏らの発起で明治42年12月9日特許を得、43年着工同年10月16日より渋川新町-伊香保間の運転を開始した。
 伊香保温泉は渋川より500メートルの高所にあるため日本には珍らしい登山電車として誕生したわけであるが、後年開通した箱根登山電車にくらべると設備万端誠に貧弱なもので、急勾配線用の電車としてよく許可になったものだと思う。
 軌間1,067ミリ、シングルトロリー式で、下りの時はポールを使用せず隋力によって運転した。
 以後の変遷については高崎水電の項を参照願いたい。



                 
        

木曾三社神社・参拝 -6-

2014/ 02/ 13
                 
 木曾神社停車場 
 まだチンチン電車が通っていた頃にも、箱田の家に何日も泊りがけしていました。この時、耳を悪くし、伯父に連れられて、治療のため前橋の耳鼻科の先生のところに通ったときに、路面電車に乗ったことを覚えています。
 当時は「木曽神社停車場(旧道)」という名称でしたが、バス路線に変って「木曽神社入口(国道17号)」になり、いま、17号の信号の標識をみると「下箱田」になっています。

 木曾三社神社停車場・大正時代頃の写真
  ・大正時代頃の「木曾神社停車場」

 下箱田信号②
  ・国道17号線「下箱田信号」。前方に「城山」が見えます。・左手の利根川べりで、夏の風物詩ヤナ漁で名高い「坂東簗」が夏オープンしています。


 木曾神社道
 アクト坂に入ると、道の左端に三つの石が置かれています。その一つが「木曾神社道」の道標です。
 アクト坂に並行して、急斜面に沿って棚田が上にどんどん伸びています。
 (「木曾神社参道」は、いま、県道下箱田線となっています。)

アクト坂  棚田・アクト坂に並行して

木曾神社道③


 坂道と棚田は続きます。
 県道渋川大胡線に入る左手前に、木曾神社の林が見えてきます。

神社近くの棚田

 木曾神社入口の狛犬が出迎えます。

木曾神社狛犬②  木曾神社狛犬①


木曾神社参拝
 木曽三社神社 参拝のしおり
当社は、後鳥羽天皇の御代元暦元年(一一八四)の創立と伝えられる。延喜式内信濃筑摩郡の三座、岡田神社、沙田(いさごだ)神社、阿礼神社の三社は、木曽義仲があつく崇敬した神社であるが、元暦元年正月、義仲没落に及んで、その遺臣、今井、高梨、町田、小野沢、萩原、諸田、串淵等が神託を奉じて、この地に遷しまつったものである。
木曽神社の遷宮について次のような伝説がある。
木曽義仲の没後、その遺臣らは一時木曽の谷にいたが、頼朝の詮議が厳しいので、木曽は決して安全な隠れ場所ではなくなった。この時、木曽氏の信仰していた三社の神社の神官であった高梨南学院という人は、三夜続けて不思議な夢をみた。それは早くこの神を東の方の安全な地に遷せよという神託だった。そこで遺臣らが相談した結果、神体を七重の箱におさめて東国へと旅立つことになった。和田碓氷の峠を越えて利根川の辺までたどり着いた時、ある平和な村があった。そこに神をまつろうとすると土地の人が怪しんで「その箱は何だ。」と尋ねると、「只の箱だ。」とのみ答えた。今、その土地を箱田と言う。しかし、神の御告は更に今一度ここを立ち去るようにと下だった。そして、また人々は旅に出たが今度は半日にして利根川東岸の山中のある清い泉の所に着いた。ここで人々は一憩したが、その時、御神体の箱をとある石の上に降ろした。すると不思議なことに人々が再び出かけようとすると箱は石に固く着いてしまって動かなくなった。大騒ぎして持ちあげようとしたが無駄だった。ここにまつられたのが木曽神社である。今でも神社の前に高梨氏の石像と、御腰掛石とがある。遺臣たちはここに土着して四方に広がっていった。
爾来、今日に至るまで木曽一族の祈願所であるは勿論、所縁ある武将の崇敬もあつく、観応年間、管領上杉憲顕社外の田を寄進し、後、上杉謙信は武運長久の誓書を奉り、白井城主長尾氏も又厚く崇敬したという。徳川幕府となっても、領主の尊崇は変わらず、社地の御修復と称して、前橋城主は代々公費を以って営繕をしていたが、寛政元年六月、火災にあった時、領主松平氏は武州川越にあり移封の説もあった為、造営の沙汰も遷延してしまった。よって同六年、氏子信徒相謀って社殿を建築した。
文化七年、前領主酒井氏は播州姫路から重臣を遣わし、鉾一口、及び金若干を献じた。同十年、更に従四位下雅楽頭忠道は自筆の神号額その他を献納した。前橋城主松平氏も又崇敬厚く、入城の当時、たまたま拝殿再建の際であったので金二十両を寄進し、落成式の後、明治三年、従五位大和守直方社参して、弓矢を奉納し、続いて伯爵松平基則は信徒として弦料金若干を献じた。
同二十九年六月、県社に列せられた。
同三十一年九月、貞宮多喜子内親王殿下より幣帛料に掛物一幅を添え、木曽桧七株御下賜。
同三十四年八月、北白川宮能久親王妃殿下、成久王殿下、輝久王殿下及び二荒芳之伯御参拝、幣帛料金二千疋お納め、かつ社頭に若松一対お手植えになった。
同三十五年八月、有栖川宮威仁親王妃慰子殿下、戴仁親王妃実枝子殿下より幣帛料二千疋。
同三十六年、有栖川宮威仁殿下より幣帛料四千疋の御進納があった。
明治三十六年九月、社域に宮城遥拝所設置のことが明治天皇の叡聞に達し御内意を以て黒田待従を御差遣になり、更に三十九年十二月には神饌幣帛料供進指定となった。
大正十三年八月、山階宮菊暦王妃常子殿下御参拝、幣帛料一千疋御納めあり、かつ桧一対をお手植えになった。
昭和十七年六月、大東亜戦争御祈念のため、今上陛下より金二十円也御下賜あらせられた。
戦争終了後、昭和二十一年二月、法令改正により県社の社格改正され、神社本庁の所管となる。



 2014年2月10日、雪が残っている晴れた日の午後、木曾三社神社を訪れました。
 木曾三社神社鳥居 20140210
 ・社殿側から見た、神社入口方面。雪が積もった後に、足跡が見えません。







                 
        

木曾三社神社・境内 -5-

2014/ 02/ 12
                 
 箱田の家より頂いた「木曽三社神社」のパンフレット。①から⑰まで写真入りです。
 木曾三社神社シリーズに掲載の、「渋川北群馬神社要覧」も最近頂きました。
 「橘陰郷土かるた」は、復刻した年に頂戴しています。

≪表面≫
①社殿
②手水舎と祓殿
③御腰掛石と箱田伝説
④木曽遺臣像
⑤稲荷神社(おいなりさま)
⑥滝不動(不動明王)
⑦厳島〈いつくしま〉明社(神社)
⑧湧玉
⑨セキショウ群
⑩旭の滝

≪裏面≫
⑪筆子の石宮(筆塚)
⑫末社の石宮(菅原・神明・八幡・愛宕神社など)
⑬猿田彦大神
⑭芭蕉句碑
⑮「瀧の宮」の額(拝殿の前面)
⑯黒田清綱の歌額(拝殿の前面)
⑰歌碑



木曽神社パンフレット表面右上部分
 ・木曾三社神社パンフレット(表面・右上部分)

木曾三社神社パンフ表左上
・木曾三社神社パンフレット(表面・左上部分)

木曽神社アクセス
 ・木曾三社神社:群馬県渋川市北橘町下箱田1番地
 [関越自動車道の渋川・伊香保IC下りて、国道17号線に。利根川に架かる坂東橋を渡る。下箱田信号を左折して県道下箱田線に入り「アクトザカ」を上る。県道渋川大胡線手前左手に鳥居が見えてくる。近隣に「聖酒造」、「たちばなの郷城山(宿泊・飲食)」、「温泉・ばんどうの湯」がある。